大判例

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大阪高等裁判所 昭和26年(ラ)75号 決定 1952年1月10日

抗告人 山田清次

主文

原審判を取消す。

本件を京都家庭裁判所に差戻す。

理由

本件抗告理由は

一、原審裁判所は名「清次」を「木魚」に変更しなければ社会生活上著しく支障のある場合は許可すべきものであるが、本名清次の外に○○園同人として光名「木魚」を称して居ればよいのであつて、世人は木魚を本名と誤解することは少なかろうと思われると論断して名の変更許可申立を却下しましたが、抗告人は三十三歳の時○田○○師の○○園に入り爾来光名(○○園の法名)を木魚と称し、今日まで二十七年間○○園同人として世界平和のための奉仕行に終始し来つたのであつて、その間講演或は○○園機関誌「○」への執筆、若干の著書、雑誌「大衆文芸」その他地方新聞に対する執筆は勿論日常の呼名から手紙のやりとりまで光名「木魚」を使用し来たので抗告人を知る程の人で「清次」が本名であることを知つている人は皆無といつてよい状態であります。抗告人は昭和二十二年五月以来政治結社「○○園○○会」の責任者となり、○○師が参議院に出られた関係もあり屡々選挙運動にも関係し抗告人自身も立候補を慫慂されたことも屡々あり、抗告人が将来地方選挙又は参議員選挙に立候補する場合には本名「清次」を使用せねばならぬことになりますが、光名「木魚」を二十七年間使用し来たものですから、本名「清次」を知つて居る者は前示の通り皆無の状態で、之れが為め選挙者が誤解する虞れがあり、本名「清次」を使用することは却つて社会生活上著しく支障を来たすこととなるので本名「清次」を「木魚」に変更する必要があるのであります。然るに此点を顧みざる原審裁判所の審判は失当であります。

二、従来は神官若しく僧侶となつたときは改名を許されて居つたものでありますが、抗告人が○田○○師の○○園に入り以来(○○園の法名)を木魚と称し来つたので神官又は僧侶となつた場合に類似して居るもので戸籍法第百七条第二項の所謂正当なる事由に該当するものと存じます。然るに原審裁判所が此点に閑却した審判は失当であります。

三、憲法第十三条にすべて国民は個人として尊重され、幸福追求に対する国民の権利に付ては公共の福祉に反しない限り国政の上で最大の尊重を必要とすと規定されて居ります。抗告人は○田○○師の○○園に入り光名「木魚」と称し二十七年間社会生活を営み抗告人を知る程の人で「清次」が本名であることを知つて居る人は皆無の状態で、此の状態にあることは○○川○、○上○三、○師○二、○川○○郎、○○○郎等の証明する所で「木魚」を本名に改名して使用することは公共の福祉に反するものでなく、選挙立候補其他社会生活上抗告人の利益となることであります。

というのである。

抑も名は氏と共に人の同一性を表彰する称号たる機能を果すものであつて、その軽々しい変更は一般社会に対し至大なる迷惑を与うるものであるから、之をむやみに変更しないで終始一貫性を保たせ以て呼称秩序の静的安全を確保することは誠に望ましいことである。又それと同時に或人が特別の必要があつてその名の変更を希望している場合、例えばその名の為に社会生活上甚しい支障があつて、その継続を強うることが社会観念上不当であるとか或は営業上の目的からの襲名の如く変更後の名を称する方がその人の社会生活上明かに有利であるとかという様な事情があつて而もその人が名の変更を希望している様な場合には、なるべくその希望を容れて変更をみとめるということは個人の自由と幸福追求を承認する憲法上の原則から見て之亦望ましいところである。而して右二つの法益中何れを重とみ、何れを軽とするか我国の法律では一まず前者に重点を置き後者が前者を犠牲にするに価するほど必要性ある場合にはその変更を認めようとするものと云える戸籍法第百七条の法意がそれである。

即ち前記の如き必要性同法条に所謂正当な事由があるときは呼称秩序の静的安全確保にいう法益を犠牲にして名の変更が許されるのである。本件に於て抗告人の主張するところによれば抗告人は三十三歳の時○田○○師の○○園に入り爾来光名○○園の法名を木魚と称し今日まで二十七年間○○園同人として世界平和のための奉仕行に終始し、その間講演或は○○園機関誌「○」への執筆、若干の著書、雑誌「大衆文芸」その他地方新聞に対する執筆は勿論日常の呼名から手紙のやりとりまで光名木魚を使用して来たので抗告人を知る程の人で本名を知る人は皆無といつてよい状態であるというのである。果してその通りだとすれば、戸籍上の本名が他にあるということは抗告人としては日常生活上に幾多の支障があり不利不便もあろうことは想像に難くない。そしてその戸籍名を飽く迄継続せしめることが呼称秩序の安全確保の上必要不可欠だとも考えられない。否寧ろ変更を許して戸籍名と合致せしめる方が社会的に見ても便利であるとさえ考えられる。殊に名は氏とは異つてその変更は同一戸籍に属する他の者に関係を及ぼすことなく、一般社会に対する影響も氏の変更の比ではない。正しく名の変更に付て正当の事由ある場合に該当する様に思量せられる。もとより社会には戸籍名の外に通称を有し、ペンネーム、芸名等を使用している類例は幾多あるが、その使用の程度や期間の如何によつては社会生活上への支障なしとは云いきれない。

それ故原審としては果して抗告人主張の如く二十数年間講演に執筆に日常の呼名から手紙のやりとりに至る迄木魚なる光名を使用している状態であるか否かを審査し、それが上来説示した名の変更の正当の事由に当るか否かを審究すべきであつて、原審がこの点の審査を尽さずして抗告人の本件申立を却下したのは相当でないと謂わねばならぬ。然らば抗告人の本件抗告は理由があるから原審判を取消し、本件を京都家庭裁判所へ差戻すべきものとし主文の通り決定する。

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